イラクで人質となっていた人々が、異常なバッシングにさらされています。
初めは、単なる匿名掲示板のいつもの行動かと静観していたのですが、事態は次第にエスカレートし、しまいには、救出費用を犯罪被害者である彼ら自身に請求するという状態にまで陥りました。
そのあまりのバッシングぶりは、米国のパウエル国務長官自らが”彼らイラクで人質になった人々は(ボランティアなりジャーナリズムなり)勇気ある行動をしていた。日本国民は彼らを誇りに思うべきだ”という、異例の声明を発表せざるを得ない事態にまで発展しました。
しかし、政府関連や週刊誌などを中心に、その火は衰える雰囲気を見せていません。
この事件の原因として、多くの識者からは、日本国民、特に政治的無関心層の感じている恐怖が挙げられています。
つまり今回の事件を要約すると、”イラクの人々にあれだけ尽くしたボランティアの人々や、中立と言うよりもむしろイラク人寄りの取材をしていた人々が日本人であるという理由だけでイラクの普通の人々による誘拐犯罪の被害にあってしまった”という風に言う事が出来ます。これをひっくり返すと、”ボランティアもイラク寄りの報道もしていない自分たち普通の日本人が、ただで済むはずが無い”という恐怖を呼び起こしている、という分析です。
この恐怖から逃れる術としては”実は彼ら人質はイラクの人々の役に立っていなかったのだ”とか”実は彼ら人質は政府に逆らったからいけなかったのだ”とか、挙句の果てには”全て彼等イラク人質の自作自演なのだ”といった、”自分はそうじゃないから大丈夫”という論理の構築が必要になり、そのために彼らを必死になってバッシングせざるを得ないのだ、とされています。(自作自演説あたりに関しては思わず鼻で笑ってしまう類のたわごとなのですが、驚くべきことに、政治家では福田官房長官とその周囲、マスコミでは産経新聞と週刊新潮などが、この説を信じ、それを理由に人質が実際に救出される前からバッシングをしていました)
それに加え、私はここで、もう一つの理由として、記者クラブ所属マスコミによる”自分たちの認めないメディアはメディアじゃない””自分たちの認めないボランティアはボランティアじゃない”という驕りがあることは見過ごしてはならないと考えています。
これが最も判るのが、今週の週刊文春の記事にある”ジャーナリストとして取材をするからには、いずれかの雑誌やメディアと契約し無ければならない”として、イラク人質を断罪している点でしょう。
もちろん、ジャーナリストとは本来、個人や単独グループで取材をし、スクープを得た時点で、そのネタに最も良い待遇を与えてくれるメディアにそのスクープを販売する職業です。初めからいずれかのメディアに所属して行ってしまっては中立的な取材は不可能であり、メディアのサラリーマン特派員となんら変わらない、二次的情報を集めただけの情報しか集めることが出来なくなることを意味します。
そうしたジャーナリストの本分を真っ向から否定する文春の意見は、国際的常識から考えればメディアの腐敗とも言え、異状と言う他無い主張なのですが、週刊文春では、その異常さにまったく気づかずに、”ジャーナリストとして老婆心ながら、と彼らにジャーナリストの何たるかを言うべきであった”とまで言い切り、自らの腐敗を恥じるどころか、誇っている始末です。
確かに、日本の政府主導型マスメディアでは、いずれかのメディアに所属し、記者クラブに入ることが手っ取り早く情報を得るために必要なこととされています。記者クラブに入っていない人間は政府や広告代理店主催の記者会見に入場することが出来ず、”ジャーナリストではない”という扱いを受け、多くの取材からシャットアウトされてしまいます。
政治・行政関連については記者クラブに入って官製の情報を受け、その他の記事については共同・時事の両通信社から購入する、というのが、日本のマスメディアの常識であり、標準的な態度なのです。
おそらく、今回の文春の批判記事も、こうした日本独自の”ジャーナリストの常識”に則ったものなのだと思われます。
しかし、この記者クラブ制度については田中康夫長野県知事が記者クラブを廃止した際に明らかになったように、政府による非明文化でのメディア規制であるとして、海外メディアからは強い批判を受け続けている制度であることを忘れてはなりません。
実際、私自身CG関連などで海外取材をしていてもそうなのですが、私たちフリージャーナリスト扱いの人間の取材の結果、おいしそうなネタがあると彼ら記者クラブ所属系の大マスコミが大挙して押し寄せ、私たちを押しのけてその場に居座り、現地の名産品を食べながら、私たちの書いた記事をほとんどそのまま書き写しただけの記事を(もちろん私たちに断りも無く)平然と配信している姿がよく見られます。
もちろん、他国の取材される側から見れば、実際に取材をしている私たちにまず情報を明かすわけで、一次情報の取材と無関係になってしまっている彼ら大マスコミとしては、私たちの記事を丸写しするしか道は無いのでしょうけれども・・・
どうせパクられてしまうとなれば、私たちジャーナリストが日本国内で収益を得るためには彼ら大マスコミに首をたれた方が利口なわけで、今や、文春の指摘どおり、多くのフリージャーナリストが出国前に各大マスコミと契約し、無料で記事をパクられる前に、一定金額で記事を売ってしまおうとしています。(これで面白いのは、契約していない他社による記事のパクリが無くなる訳ではないところなのですが)
しかし日本人ジャーナリストの多くがそうしているからといって、それがジャーナリストの正しい姿であるとは、決して言えません。
ジャーナリストとは、決して、国家によって与えられた資格を持つ職業ではなく、市民の知りたいという欲求にあわせて市民の目や耳としてどこにでも入り込んでゆく、蚤や虱のような存在で無ければならないのです。
”メディアに所属していなければジャーナリストでは無い”という文春の主張は、前述の田中康夫知事の言葉を借りるまでも無く、ジャーナリズムの国際的常識とはかけ離れ、腐敗した、異常な姿であると断言することが出来ます。
どこの馬の骨ともわからない有象無象や、茶髪の小僧がジャーナリストを名乗ってカメラを振り回してこそ、真の民主主義、本当のジャーナリズムです。マスコミの本分を語れば、そうした有象無象の連中を掻き分けてスクープを手にし、あるいは、時には彼らと協力をし、真実の情報を手に入れてゆく姿勢が必要です。
大マスコミに所属していないという理由で彼らを批判するのは、自らがかなぐり捨ててしまった、そうしたジャーナリストとしての真の姿を見たくないという理由にしか思えません。
大メディアがイラクに行った彼らの存在をジャーナリストとして認めてしまうということは、今の、足つき飯つきの取材を出来るメディア所属の人間の特権階級的な立場を捨てることに他なりません。もちろんそれは、記者クラブによって情報統制をしている政府にとっても都合の悪い
事なのでしょう。
政府や大マスコミも、そうした理由から、彼らに恐怖を感じ、攻撃的になっているのでしょう。
その攻撃に、日本国民がテロに対して感じている恐怖がいいように利用されてしまっている感があるのは否めません。
現実問題として、私たち日本人には今、一人頭500グラムの純金が懸賞金としてかけられており、全日本人一人一人が、世界中のテロリストから命を狙われている状態です。
これを読んでいるあなた。あなたを殺せば、その犯人は、500gの金塊を手に入れるのです。
電車に乗っていて、道を歩いていて、あるいは恋人や家族と過ごしていて、あなたやあなたの大切な人が突然テロリストに殺される可能性が、大いにあります。
これを真正面から見つめることは大変な恐怖です。
しかし、国民一人一人が事実は事実であるとしてこれを受け止め、むしろこれを好機とし、日本の政治やジャーナリズムのあり方を変えて行ければ、と願わずにはおれません。
テロの恐怖から目をそらすのではなく、国民一人一人が自らの恐怖とその原因を自覚し、テロの起きにくい政治、テロの真の情報、テロの理由が伝わるメディアを手に入れることが、本当の意味でのテロとの戦いなのではないでしょうか?
まずは、選挙の際には投票に行き、イラク人質批判をしているような雑誌は買わず、そしてたまには、なぜあなた自身がテロリストに命を狙われるのかを、家族や友人と話をしてみてください。
そうした小さな行動が、世の中を変えてゆくのですから。