日記概略
ナイフ取り締まりは本当に有効か?
ご存じの通り、秋葉原の事件以来、通り魔が多発しています。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080729-OYT1T00451.htm
これに対して警察がとっている対策が、ナイフ取り締まりの厳格化で、先日のラジオ報道によれば、秋葉原の事件以降、東京区内だけでも150件以上の摘発を行った、とのことでした。
もしこれが全員凶悪犯やその予備軍であれば、数年分の犯罪を予防したと言えるほどの人数です。
しかし、そんな警察の自称大戦果をよそにして、ニュース記事の通りに、通り魔はいっこうに減らないどころか、激増しています。
それも当然の話で、警察が町中で取り締まっているのは、カッターナイフや十徳ナイフ(警察用語でアーミーナイフ)なのです。
当たり前の話ですが、そんなちゃちなものでは人はなかなか殺せませんから、無差別殺人事件の犯人がそんなものを持ち歩く理由もなく、減少には全く結びつかないのです。
つまり警察が捕まえているのは、たまたま工作道具や日常的に十徳を持っていただけの、犯罪の意志のない善良な一般市民である、ということになります。
そうでなければ、この厳戒体制下・刃物の取り締まり状況下での通り魔事件の多発は説明することが出来ません。
そもそも、昨今日本の国力が低下してしまっている理由の一つとして、応用力の低下、ものづくりの能力の低下が叫ばれ、その主要な要因として、子供の頃から刃物に親しんでいないため、ものづくりの経験がない大人が増えている、ということが言われて久しいのです。
刃物は、人類が最初に触れた道具の一つとされる、非常にプリミティブな道具で、なんにでも使える万能の道具といえます。
逆に言えば、そういう道具であるだけに使い方を間違えれば人を傷付けることも出来るのは当然で、使い方をしっかりと学ぶということの大切さや、使い方の創意工夫の重要性を思い知ることの出来る、素晴らしい道具であるといえます。
昨晩は、平塚で珍しく、十徳ナイフを使っての通り魔が発生しましたが、幸いにして被害者は全員軽傷とのこと。構造上力一杯刺すことの出来ない十徳ナイフの殺傷力は、警察の持つ樫の警棒よりも低いといわれていますので、その程度の被害だったのはある種当然といえます。
今回の平塚の事件では、犯人の女が前夜に包丁を持って自宅で暴れており、一歩間違えれば包丁を使われるところだったと言われています。
包丁での通り魔であれば被害はもっと深刻であったのは間違いがないところで、あえて刺激的に言えば、平塚の事件では、犯人が凶器に十徳ナイフを選んだことが被害の減少に直結しているとも言えます。
それなのに、警察が取り締まるのは十徳ナイフなどの、市民の身近にある比較的安全な刃物。
警察力を使って市民の手からますます身近な刃物を遠ざけるようにしておいて、その一方で、刃物に親しむ必要を強調するのは、いかがなものなのでしょうか?
現実問題として、刃物の所持を禁止するのではなく、小型刃物を所持免許制などにして、家庭外での所持に一律に制限をかけるのが望ましいのではないでしょうか?
この免許は小学校高学年で取得させ、犯罪や目的外などの不法所持が発覚したら、減点。場合によっては取り消し。取り消し者には再講習。
現行の国民は当然全員免許所持状態から始め、制度施行からは、同様に減点対象とする。(刃物店などで簡単に登録できる仕組みが望ましい)
日常的に多用する道具であるだけに、施行の面倒はかなりあるでしょうけれども、こうすれば、刃物の持ち方に対する再教育の機会が与えられて、刃物を用いた犯罪の抑止となり、また、職業や趣味での必要性から刃物を持ち歩かなければならない人にも優しいのではないかと思えるのですが……
私も、個人的な問題として、十徳やカッターすら持ち歩けない現状が、不便でたまりません。
デザイナーとして、カッターを使う機会がなにかとあるのですが、その度ごとに先方に頭を下げて貸して貰ったり、コンビニでカッターを買いに行っている有様です。
出先で買った瓶飲料の口が開けられずに難儀したり、何かの拍子に指にとげが刺さっても抜くことすら出来ません。
キャンプなどで山に入ったり、釣りに行っているときの方が、十徳を手元に置いておけるため、よほど便利なのです。
免許制は私の妄想に過ぎませんが、せめて、十徳や小型カッターは制限から外して貰わないと、生活自体が本当に不便です。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080729-OYT1T00451.htm
これに対して警察がとっている対策が、ナイフ取り締まりの厳格化で、先日のラジオ報道によれば、秋葉原の事件以降、東京区内だけでも150件以上の摘発を行った、とのことでした。
もしこれが全員凶悪犯やその予備軍であれば、数年分の犯罪を予防したと言えるほどの人数です。
しかし、そんな警察の自称大戦果をよそにして、ニュース記事の通りに、通り魔はいっこうに減らないどころか、激増しています。
それも当然の話で、警察が町中で取り締まっているのは、カッターナイフや十徳ナイフ(警察用語でアーミーナイフ)なのです。
当たり前の話ですが、そんなちゃちなものでは人はなかなか殺せませんから、無差別殺人事件の犯人がそんなものを持ち歩く理由もなく、減少には全く結びつかないのです。
つまり警察が捕まえているのは、たまたま工作道具や日常的に十徳を持っていただけの、犯罪の意志のない善良な一般市民である、ということになります。
そうでなければ、この厳戒体制下・刃物の取り締まり状況下での通り魔事件の多発は説明することが出来ません。
そもそも、昨今日本の国力が低下してしまっている理由の一つとして、応用力の低下、ものづくりの能力の低下が叫ばれ、その主要な要因として、子供の頃から刃物に親しんでいないため、ものづくりの経験がない大人が増えている、ということが言われて久しいのです。
刃物は、人類が最初に触れた道具の一つとされる、非常にプリミティブな道具で、なんにでも使える万能の道具といえます。
逆に言えば、そういう道具であるだけに使い方を間違えれば人を傷付けることも出来るのは当然で、使い方をしっかりと学ぶということの大切さや、使い方の創意工夫の重要性を思い知ることの出来る、素晴らしい道具であるといえます。
昨晩は、平塚で珍しく、十徳ナイフを使っての通り魔が発生しましたが、幸いにして被害者は全員軽傷とのこと。構造上力一杯刺すことの出来ない十徳ナイフの殺傷力は、警察の持つ樫の警棒よりも低いといわれていますので、その程度の被害だったのはある種当然といえます。
今回の平塚の事件では、犯人の女が前夜に包丁を持って自宅で暴れており、一歩間違えれば包丁を使われるところだったと言われています。
包丁での通り魔であれば被害はもっと深刻であったのは間違いがないところで、あえて刺激的に言えば、平塚の事件では、犯人が凶器に十徳ナイフを選んだことが被害の減少に直結しているとも言えます。
それなのに、警察が取り締まるのは十徳ナイフなどの、市民の身近にある比較的安全な刃物。
警察力を使って市民の手からますます身近な刃物を遠ざけるようにしておいて、その一方で、刃物に親しむ必要を強調するのは、いかがなものなのでしょうか?
現実問題として、刃物の所持を禁止するのではなく、小型刃物を所持免許制などにして、家庭外での所持に一律に制限をかけるのが望ましいのではないでしょうか?
この免許は小学校高学年で取得させ、犯罪や目的外などの不法所持が発覚したら、減点。場合によっては取り消し。取り消し者には再講習。
現行の国民は当然全員免許所持状態から始め、制度施行からは、同様に減点対象とする。(刃物店などで簡単に登録できる仕組みが望ましい)
日常的に多用する道具であるだけに、施行の面倒はかなりあるでしょうけれども、こうすれば、刃物の持ち方に対する再教育の機会が与えられて、刃物を用いた犯罪の抑止となり、また、職業や趣味での必要性から刃物を持ち歩かなければならない人にも優しいのではないかと思えるのですが……
私も、個人的な問題として、十徳やカッターすら持ち歩けない現状が、不便でたまりません。
デザイナーとして、カッターを使う機会がなにかとあるのですが、その度ごとに先方に頭を下げて貸して貰ったり、コンビニでカッターを買いに行っている有様です。
出先で買った瓶飲料の口が開けられずに難儀したり、何かの拍子に指にとげが刺さっても抜くことすら出来ません。
キャンプなどで山に入ったり、釣りに行っているときの方が、十徳を手元に置いておけるため、よほど便利なのです。
免許制は私の妄想に過ぎませんが、せめて、十徳や小型カッターは制限から外して貰わないと、生活自体が本当に不便です。
日記概略
ナイフ規制強化などしてなんになる?
秋葉原の連続殺傷事件を受け、なにやら警察庁が、銃刀法を強化したナイフ規制法を次期国会に提出するようです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080717-OYT1T00316.htm
しかし、肝心の事件の原因であり、犯人を無差別殺人にまで追いつめた、期間派遣問題についても、トヨタ・関東自動車正社員の非正社員に対する差別的な企業文化についても一切手つかずのままで、ダガーのみを規制したところで、事件防止どころか、むしろ事件原因を温存しただけで終わってしまうのではないでしょうか?
なぜ、こういう訳のわからない(事件防止の実効性の低い)法律になってしまうのかを考えたとき、やはり、田中康夫先生、小沢一郎塾長の仰っていた、官僚主導政治の匿名性の問題が大きくあるのでは、と思えます。
官僚は個々人の名前が表に出てこないため外部からは匿名性によって守られており、そのため、内向きに「形だけ」対策を取ったことにすれば、経歴的にはむしろプラスになるのです。そのような現状があるからこそ、波風が立つ「期間派遣の再禁止」や「トヨタ・自動車産業に対する行政指導」ではなく、「力の弱いナイフ業界に対する嫌がらせ」と「社会的発言力の低いオタクへの責任転嫁」で決着を付けようという動きになるわけです。
しかし、これでは、世の中はつまらない規制ばかり増え、一向に良くなって行きません。
本来であれば、こういう事件に対する対策などは、議員立法で緊急対策を講じ、政治主導で戦って行くべきものです。
日本での秋葉原事件の直後に起った、上海での日本製包丁による公安支局(警察署)での連続殺傷事件を見ればわかるとおり、ダガー形状のナイフの殺傷力が特に強いというわけではなく、どんな道具であっても、犯人の利用方法次第ではとんでもない殺傷力を持った凶器になり得るのです。
http://chiquita.blog17.fc2.com/blog-entry-3342.html
上記を見ても、犯罪の原因を追及せずに、単に凶器に使われた種類の道具だけを規制しても、まったく犯行を防止する役に立たないのは明白です。今度はナイフ、次は包丁、と、国民生活への影響を顧みずにどんどん規制の枠を広げたところで、犯行の原因さえあれば、犯人は次々に凶器を変えてくるだけなのですから。
国民の声を背景にした被選挙者であるからこそ、波風を恐れずに大企業の利権や社会構造の問題に踏み込めるのであり、匿名制に守られなければならない官僚には、そうした思い切った行動は、決して出来ないのです。
事が起れば、とりあえず事件に関係してそうなものを単純に力の弱い順に並べ、弱いところから叩いていこうというのは、官僚主導政治の典型的な問題であると言えます。
日本が右肩上がりの成長を終えた以上、こうした事件に限らず、国民生活に密着した緊急を要する案件は、今後も次から次へと出てくると思われます。
連続殺傷事件のような衝撃的な事件が起ってすら、その原因である企業体質や派遣利権の問題に一言の文句も付けられないのですから、刻々と状況が変わる事が予想される今後の日本の運営には、官僚主導政治では、一切対応することが出来ません。
一日も早い政権交代が必須なのです。
ちなみにまったく個人的な話ですが、幸か不幸か、私は諸刃の刃物が嫌いなので、ダガーやそれに類するものは一本も持っていません。海でも、片側エッジのナイフで何とかかんとかやりくりしています。
しかし、ダガー形状のナイフは、デザインナイフの世界では最高級のデザインとされているものが多く、中には数百万円の値が付いているナイフも多く出ています。ナイフの祖である、かのラブレスナイフの中でも、ダガーは極めて高い評価と高い価格を誇っています。財産として、諸刃のナイフを持っている者も多いのです。
そうした、国民個人の財産を、いとも簡単に没収して鉄くずに変えるというのは、民主国家としていかがなものなのでしょうか?
どうしても禁止をするにしても、例えば、今までは日本刀にしか認められていなかった美術登録をナイフにまで広げるなど、国民財産に対する救済措置は必須なのではないでしょうか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080717-OYT1T00316.htm
しかし、肝心の事件の原因であり、犯人を無差別殺人にまで追いつめた、期間派遣問題についても、トヨタ・関東自動車正社員の非正社員に対する差別的な企業文化についても一切手つかずのままで、ダガーのみを規制したところで、事件防止どころか、むしろ事件原因を温存しただけで終わってしまうのではないでしょうか?
なぜ、こういう訳のわからない(事件防止の実効性の低い)法律になってしまうのかを考えたとき、やはり、田中康夫先生、小沢一郎塾長の仰っていた、官僚主導政治の匿名性の問題が大きくあるのでは、と思えます。
官僚は個々人の名前が表に出てこないため外部からは匿名性によって守られており、そのため、内向きに「形だけ」対策を取ったことにすれば、経歴的にはむしろプラスになるのです。そのような現状があるからこそ、波風が立つ「期間派遣の再禁止」や「トヨタ・自動車産業に対する行政指導」ではなく、「力の弱いナイフ業界に対する嫌がらせ」と「社会的発言力の低いオタクへの責任転嫁」で決着を付けようという動きになるわけです。
しかし、これでは、世の中はつまらない規制ばかり増え、一向に良くなって行きません。
本来であれば、こういう事件に対する対策などは、議員立法で緊急対策を講じ、政治主導で戦って行くべきものです。
日本での秋葉原事件の直後に起った、上海での日本製包丁による公安支局(警察署)での連続殺傷事件を見ればわかるとおり、ダガー形状のナイフの殺傷力が特に強いというわけではなく、どんな道具であっても、犯人の利用方法次第ではとんでもない殺傷力を持った凶器になり得るのです。
http://chiquita.blog17.fc2.com/blog-entry-3342.html
上記を見ても、犯罪の原因を追及せずに、単に凶器に使われた種類の道具だけを規制しても、まったく犯行を防止する役に立たないのは明白です。今度はナイフ、次は包丁、と、国民生活への影響を顧みずにどんどん規制の枠を広げたところで、犯行の原因さえあれば、犯人は次々に凶器を変えてくるだけなのですから。
国民の声を背景にした被選挙者であるからこそ、波風を恐れずに大企業の利権や社会構造の問題に踏み込めるのであり、匿名制に守られなければならない官僚には、そうした思い切った行動は、決して出来ないのです。
事が起れば、とりあえず事件に関係してそうなものを単純に力の弱い順に並べ、弱いところから叩いていこうというのは、官僚主導政治の典型的な問題であると言えます。
日本が右肩上がりの成長を終えた以上、こうした事件に限らず、国民生活に密着した緊急を要する案件は、今後も次から次へと出てくると思われます。
連続殺傷事件のような衝撃的な事件が起ってすら、その原因である企業体質や派遣利権の問題に一言の文句も付けられないのですから、刻々と状況が変わる事が予想される今後の日本の運営には、官僚主導政治では、一切対応することが出来ません。
一日も早い政権交代が必須なのです。
ちなみにまったく個人的な話ですが、幸か不幸か、私は諸刃の刃物が嫌いなので、ダガーやそれに類するものは一本も持っていません。海でも、片側エッジのナイフで何とかかんとかやりくりしています。
しかし、ダガー形状のナイフは、デザインナイフの世界では最高級のデザインとされているものが多く、中には数百万円の値が付いているナイフも多く出ています。ナイフの祖である、かのラブレスナイフの中でも、ダガーは極めて高い評価と高い価格を誇っています。財産として、諸刃のナイフを持っている者も多いのです。
そうした、国民個人の財産を、いとも簡単に没収して鉄くずに変えるというのは、民主国家としていかがなものなのでしょうか?
どうしても禁止をするにしても、例えば、今までは日本刀にしか認められていなかった美術登録をナイフにまで広げるなど、国民財産に対する救済措置は必須なのではないでしょうか?
日記概略
小沢一郎政治塾夏期講習
この週末は、4日間泊まり込みでの小沢一郎政治塾の夏期講習でした。
20代の若い子たちに混じっての講習は、刺激もあり、大変勉強になるものでした。
今回の先生方のご講義のメインテーマの一つに、「官僚制度改革」というものがありました。
初日の田中康夫新党日本代表での講義でも、最終日の小沢塾長先生の講義でも、「英国型の、国会議員自身が官僚たちと机を並べて現場を指揮する」という行政スタイルへの移行こそが、腐敗し、凋落する一方の日本を救う道である、という点が強調されていたのが印象的です。
つまり、「政治家なんて実務能力のない馬鹿ばかりだ」「日本の官僚の能力は世界一だ」なんて言っていたのが、実は単に右肩上がりの国家成長の結果そう見えていただけであって、世界の変化に対応しながら国を運営してゆくためには、官僚が政治家を指導し官僚が法律を書くという現在の官僚主導のやり方を根本から崩して変え、直近の選挙で選ばれる、時代の空気を含んだ政治家が実務を行うやり方に変えないと行けなくなってきているのです。
とは言っても、アメリカ式に官僚を片っ端からクビというのも、日本の風土には合わないやり方。
と、なれば、英国式の「誇りある国家サーヴァント」としての官僚機構へと作り替えるのが、最も優れたやり方だろう、というお話でした。
また、実際に英国でも、現在の「誇りある国家サーヴァント」制の前は、酷く腐敗した官僚主導政治だったそうで、その点も似ているようです。
また、米国との関係強化、世界との連携強化というのも、大きなテーマの一つであったように思えます。
実際、小沢先生の塾長講義では、米国との対等でより親密な関係を築き上げることの重要性が、拉致問題を抱える日本にとっては完全に不調に終わった六カ国協議会談を例に挙げて示されたのも印象的でした。
つまり、端的に私の言葉で言えば、官僚が主導する奴隷のように忠実な日本は、既に世界のどの国からも必要とされていないのです。
混迷を極めるこれからの世界が必要としている日本は、強く、主体性のある経済・技術大国としてのリーダーとしての姿であって、それを出来ずに自ら奴隷のような従順さに甘んじることで日本の統治機構のスタッフが楽をしようとしているから、結局六カ国協議ですらも、日本が除け者となってしまっている現状があるのです。
そういえば、上記の2つのテーマが、色々と歪められてカルト宗教系のメディアで伝えられているのには閉口しました。
特に後者の六カ国協議のテーマを、ブッシュ批判の部分だけ抜き出して、あたかも小沢先生が拉致問題を相手にしていないかのような脳内編集を行っている自称ブロガーの類も多いようですね。
「ブッシュはその言動から見て拉致問題を軽視しているはずだ、だから拉致を抱える日本としては、甘えを捨ててリーダーシップを取り戻し、急いで他国も納得の行く対策を取って行かねばならない」、という言葉が、カルト脳にかかると「ブッシュはその言動から見て拉致問題を軽視しているはずだ、(だからさらに奴隷のように従おうorあきらめよう)」と聞こえてしまうのでしょうか?
特に六カ国で米国甘え政策で大ドジを踏んだ外務省はそうした与党カルト宗教の巣ですから、なんとかして世間の目を反らしたいのかも知れないな、とも思えてしまいます。
ところで、今回の小沢塾関連のニュースでは、何かと反民主の記事を書くことの多い産経新聞が、講義内容を理解したかなりまともな記事を書いていたのは、ちょっと新鮮な驚きです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080713/stt0807131350002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080713/stt0807131358003-n1.htm
リンク先をご覧の通り、ちゃんと内容を理解して、外務省の姿勢の弱さが産んだ米国の日本軽視であることにまで言及してあるんです。
酷い他の新聞では、例として出した「英国では国会議員200人が行政現場で官僚と机を並べて働いている」という言葉を、どこをどう聞き間違ったのか「民主党が政権を取ったら国会議員200人を行政現場に送り込む」と言ったと書いているところまでありますからね(^^;
そもそも、米国式に国会議員のポストを無意味に増やしたり官僚のクビを無駄に切ってもしょうがない、という話の流れの中での英国の例だったのに、まったく講義を聴いていない(もしくは聞く能力のない)メディアだったのかも知れません。
講義室でも、言葉尻の強いところでばかり反応の大きいメディアが多い中で、フジ産経系のスタッフの方々はちゃんと講義を聴いて、政策の部分できちんと反応を示していた感じだったので、あれ、と思っていたのですが、なかなかどうして、最近はフジ産経も、質の良いスタッフを抱えているようですね。
20代の若い子たちに混じっての講習は、刺激もあり、大変勉強になるものでした。
今回の先生方のご講義のメインテーマの一つに、「官僚制度改革」というものがありました。
初日の田中康夫新党日本代表での講義でも、最終日の小沢塾長先生の講義でも、「英国型の、国会議員自身が官僚たちと机を並べて現場を指揮する」という行政スタイルへの移行こそが、腐敗し、凋落する一方の日本を救う道である、という点が強調されていたのが印象的です。
つまり、「政治家なんて実務能力のない馬鹿ばかりだ」「日本の官僚の能力は世界一だ」なんて言っていたのが、実は単に右肩上がりの国家成長の結果そう見えていただけであって、世界の変化に対応しながら国を運営してゆくためには、官僚が政治家を指導し官僚が法律を書くという現在の官僚主導のやり方を根本から崩して変え、直近の選挙で選ばれる、時代の空気を含んだ政治家が実務を行うやり方に変えないと行けなくなってきているのです。
とは言っても、アメリカ式に官僚を片っ端からクビというのも、日本の風土には合わないやり方。
と、なれば、英国式の「誇りある国家サーヴァント」としての官僚機構へと作り替えるのが、最も優れたやり方だろう、というお話でした。
また、実際に英国でも、現在の「誇りある国家サーヴァント」制の前は、酷く腐敗した官僚主導政治だったそうで、その点も似ているようです。
また、米国との関係強化、世界との連携強化というのも、大きなテーマの一つであったように思えます。
実際、小沢先生の塾長講義では、米国との対等でより親密な関係を築き上げることの重要性が、拉致問題を抱える日本にとっては完全に不調に終わった六カ国協議会談を例に挙げて示されたのも印象的でした。
つまり、端的に私の言葉で言えば、官僚が主導する奴隷のように忠実な日本は、既に世界のどの国からも必要とされていないのです。
混迷を極めるこれからの世界が必要としている日本は、強く、主体性のある経済・技術大国としてのリーダーとしての姿であって、それを出来ずに自ら奴隷のような従順さに甘んじることで日本の統治機構のスタッフが楽をしようとしているから、結局六カ国協議ですらも、日本が除け者となってしまっている現状があるのです。
そういえば、上記の2つのテーマが、色々と歪められてカルト宗教系のメディアで伝えられているのには閉口しました。
特に後者の六カ国協議のテーマを、ブッシュ批判の部分だけ抜き出して、あたかも小沢先生が拉致問題を相手にしていないかのような脳内編集を行っている自称ブロガーの類も多いようですね。
「ブッシュはその言動から見て拉致問題を軽視しているはずだ、だから拉致を抱える日本としては、甘えを捨ててリーダーシップを取り戻し、急いで他国も納得の行く対策を取って行かねばならない」、という言葉が、カルト脳にかかると「ブッシュはその言動から見て拉致問題を軽視しているはずだ、(だからさらに奴隷のように従おうorあきらめよう)」と聞こえてしまうのでしょうか?
特に六カ国で米国甘え政策で大ドジを踏んだ外務省はそうした与党カルト宗教の巣ですから、なんとかして世間の目を反らしたいのかも知れないな、とも思えてしまいます。
ところで、今回の小沢塾関連のニュースでは、何かと反民主の記事を書くことの多い産経新聞が、講義内容を理解したかなりまともな記事を書いていたのは、ちょっと新鮮な驚きです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080713/stt0807131350002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080713/stt0807131358003-n1.htm
リンク先をご覧の通り、ちゃんと内容を理解して、外務省の姿勢の弱さが産んだ米国の日本軽視であることにまで言及してあるんです。
酷い他の新聞では、例として出した「英国では国会議員200人が行政現場で官僚と机を並べて働いている」という言葉を、どこをどう聞き間違ったのか「民主党が政権を取ったら国会議員200人を行政現場に送り込む」と言ったと書いているところまでありますからね(^^;
そもそも、米国式に国会議員のポストを無意味に増やしたり官僚のクビを無駄に切ってもしょうがない、という話の流れの中での英国の例だったのに、まったく講義を聴いていない(もしくは聞く能力のない)メディアだったのかも知れません。
講義室でも、言葉尻の強いところでばかり反応の大きいメディアが多い中で、フジ産経系のスタッフの方々はちゃんと講義を聴いて、政策の部分できちんと反応を示していた感じだったので、あれ、と思っていたのですが、なかなかどうして、最近はフジ産経も、質の良いスタッフを抱えているようですね。