日記概略
日本刀に対するQ&A例
最近、日本刀に対する理不尽な質問を受けることが多いのです。
まあ、私が居合をやっているというのがだいぶ浸透してきたからなのでしょうが、それにしても、日本人の原点、武士の魂である日本刀に対して、あまりにも間違った偏見が広まっているのが気になります。
良くある質問:
「日本刀は鉄でも斬れる?」
答え:
「鉄の種類と厚さに依ります」
一口に鉄とは言っても、鋼鉄と軟鉄では全く性質が違います。また、製法も、鍛造が鋳造かで全く性質が異なります。
日本刀は、刃先に強く焼きの入った全鋼鉄製です。したがって、これよりも柔らかい硬度のものは当然に斬り込むことが出来ます。なおかつ、日本刀よりも粘りがないものについては完全に切断することも可能です。また、日本刀がもっとも斬れるのは物打ち前後となります。
具体的には、厚さ0.5ミリ程度の軟鉄製の鉄板であれば、30センチくらいの大きさまでは、腕さえあれば両断することが可能でしょう。
ただし、日本刀は刃の部分にしか強い焼きは入っておりませんから、斬る角度を斬りそこなえば(これを刃筋が通らない、といいます)当たり前ですが斬れず、大概は曲がったり折れたりします。
日本刀は、刃先以外は案外弱く、藁を斬っただけでも引け傷と呼ばれる斬り跡が無数に残るほど繊細なものでもあります。
これは、元々戦場での主兵器は弓矢ややり、鉄砲であり、刀はあくまでも戦いの最後の近接戦闘やその後の首切りなど、本当の命のやりとりだけに使われたものだからです。(このため、日本刀は霊器として尊重されてきました)
そしてそうしたひけ傷を直すには、研ぎ直ししか方法が無く、日本刀の本格的な研ぎ直しには江戸の昔からサラリーマン平均1ヶ月分弱の給料程度の大枚が必要です。(意外かも知れませんが、刀は一度研いだら十年二十年は研がずに使うものなのです)
従いまして、こうした無茶な実験は刀が可哀想ですので、いかがなものかとは思います。
良くある質問:
「日本刀は3人も斬ったら斬れなくなる?」
答え:
「刃筋さえ間違えなければ何人でも斬れます」
困ったことに「日本刀は3人も斬ったら血油が巻いて斬れなくなる」という俗説があります。これはまったくのデタラメです。
そもそも、日本刀は油を塗って保管してあるものです。したがって、血油が巻いても全く切れ味に影響はありません。
ただし、血油が付いたまま一昼夜も放置したら、血の塩気に当たって翌日には見事な赤さびの固まりの完成です。うっかり指先程度でも斬ったら、すぐに手入れは必要です。
江戸時代の処刑人の処刑記録など過去の記録を紐解くと、20〜30人くらいの首を一本の刀で一日の内にまとめて落としているようです。そこで使われた処刑人の刀は未だに残っていますから、人間を斬ってもさほど切れ味には影響しないことがわかります。
実際、私自身、竹や藁を斬っても、100本やそこらでは全く切れ味は変わりません。私の武道の師匠様は鶏肉や豚肉でも試したそうですが、やはり、ほとんど切れ味に変化はないそうです。
また、一太刀のもとに斬り伏せた切れ味では、死体を使って試した「七つ胴」の刀まで現存していますから、7人くらいは重ねて斬ってもなんでもないことはわかると思います。
とはいえ、実際の戦場では、鎧や服の上から相手を斬るわけで、こうなると、鉄などの堅い異物に当たって刃こぼれを起こすのは必定です。また、戦場では当然に手の内の間違いも起りやすくなりますので、曲がったり折れたりもするでしょう。戦場には未熟な状態でも出ることは多いですし、また興奮状態でもあります。そうなると、斬れるものも斬れないことが多かったでしょう。
こうした切れ味への誤解は二次大戦前には見られないところから、二次大戦でこうした未熟な状態で斬り込んで斬りそこなった経験から、この俗説が生まれたのではないかとも思っています。
良くある質問:
「日本刀は霊器だからそれで斬っちゃダメなんじゃない?」
答え:
「霊器だからこそ普段から斬る稽古を積む必要があります」
歴史上、日本刀が霊器といわれるのは、その長命さや鉄や火の神聖性もさることながら「本当に最後の命にやりとりに使う兵器だ」という意味合いが強いのです。
戦場の最終決戦、あるいは、戦闘後の首切り。あるいは切腹後の介錯。そうした神聖な場面に命を吸ってきた兵器だからこその神聖性です。
極論を言えば、斬れない刀はただの半端に焼きの入った鉄の棒です。それに人が加わって他人の命を奪える状態になって初めて、神聖性が生まれるのです。
ただし、そうして数百年幾多の人の命を吸ってきた、あるいはこれからの数百年の間に幾多の人の命を吸う可能性の高い霊器ですから、扱いは慎重にしなければなりません。
拝見する前には必ず礼。武道に用いる前、あるいは用いた後には、必ず刀礼が必須です。
それは、ただの鉄の棒への作法ではなく、吸われた、あるいはこれから吸われるかも知れない人の命への礼法でもあります。
居合などで併伝される試斬稽古には、こうした、斬るべき場面への対応という意味があります。
刃先にしか強い焼きの入っていない日本刀は、しっかりと訓練を積まないと、全く斬ることの出来ないものです。剣道や居合の有段者であっても、初めての試斬でちゃんと斬れたという話は遺憾にして聞き及びません。竹刀で勝つ為の振り方、あるいは居合で美しい振り方と、真剣で斬れる刀法は、全く別のものなのです。
競技スポーツやレクリエーションとしてならともかく、斬れない剣術や斬れない居合に武道としての意味はありません。
このため、江戸の昔から、剣術、居合に併せて、必ず試斬の稽古も行われてきました。
従って、武道としての刀の使い手を自認するのであれば、斬るための稽古は必須なのではないでしょうか?
なお、現代日本においても、各県教育委員会の許可証のついている刀であれば試斬などをすることは可能です。これは、美術性をもって保存・所持が許可されている日本刀を持ちいる居合や試斬という武道自体にも芸術性・美術性があるためです。
逆に言えば、万一の護身のために日本刀を所持し、試斬するのは銃刀法違反になります。あくまでも武道という、伝統と文化、精神性の保持という点に注意が必要です。
良くある質問:
「どうして古刀に勝る現代刀がないの?」
答え:
「鉄の質の問題と、製法、単に時間の流れの問題です」
事実として、古刀(安土桃山以前の日本刀)に勝る現代刀(明治以降の刀)は存在していません。もっと言えば、新刀(江戸初期の刀)や新新刀(江戸中後の刀)でも、古刀に敵うものはありません。
この理由として、以下のようなものがあるのではないかと言われています。
「1.鉄の質がそもそも劣っている」
古刀の鉄は、山からとった、あるいは川に流れた砂鉄を、川の水力を使って比重分離したものが多く使われています。ここから、ズクと呼ばれる高炭素の鉄を作って、そこから脱炭して作られていたようです。
これに対して、現代刀は、磁力を用いて河原などから集めた砂鉄を使って出来た玉鋼と言われる和式精製鉄に吸炭をさせて作られています。
このため、多少砂鉄内の質が異なっていても、磁力にくっつく程度の鉄分があれば現代刀に混じってしまうわけで、ここがまず第一の質の違いではないかといわれています。
「2.製法の違い」
そもそも、古刀の製法は、一子相伝や一族相伝で、極秘とされてきた軍事機密でした。
そのため、江戸期以前の製法は現代にまで文献では残って居らず、そもそも製法が違うのではないかと言われています。
例えば、新刀(江戸初期)以降の刀は、高炭素の皮鉄と低炭素で柔らかい心鉄の2重構造で折れず曲がらずのハイブリット構造を実現していますが、古刀にはこうした構造はあまり見られません。にもかかわらず、古刀の方が、美しく、よく切れ、折にくいのです。
ここの解明は、現代科学を持ってしても難しいようです。
「3.時の流れによる選別と熟成」
重要なポイントとして、時の流れによる選別という点が挙げられます。
つまり、戦場を生き残る強さのある刀や、残る価値のある名刀だけが残ったわけで、古刀の出来のいいのは当たり前だというのです。
また、時間の経過に伴う鉄地の落ち着きも見逃せない点です。
つまり、作られた当初よりも時の経過によって折り返し鍛錬された鍛え地の密着性や経年変質による地肌の違いは増しているわけで、ここが強度や美しさの元になっているのでは、とも言うのです。
こればかりは、現代人にはどうしようもない点なのかも知れません。
まあ、私が居合をやっているというのがだいぶ浸透してきたからなのでしょうが、それにしても、日本人の原点、武士の魂である日本刀に対して、あまりにも間違った偏見が広まっているのが気になります。
良くある質問:
「日本刀は鉄でも斬れる?」
答え:
「鉄の種類と厚さに依ります」
一口に鉄とは言っても、鋼鉄と軟鉄では全く性質が違います。また、製法も、鍛造が鋳造かで全く性質が異なります。
日本刀は、刃先に強く焼きの入った全鋼鉄製です。したがって、これよりも柔らかい硬度のものは当然に斬り込むことが出来ます。なおかつ、日本刀よりも粘りがないものについては完全に切断することも可能です。また、日本刀がもっとも斬れるのは物打ち前後となります。
具体的には、厚さ0.5ミリ程度の軟鉄製の鉄板であれば、30センチくらいの大きさまでは、腕さえあれば両断することが可能でしょう。
ただし、日本刀は刃の部分にしか強い焼きは入っておりませんから、斬る角度を斬りそこなえば(これを刃筋が通らない、といいます)当たり前ですが斬れず、大概は曲がったり折れたりします。
日本刀は、刃先以外は案外弱く、藁を斬っただけでも引け傷と呼ばれる斬り跡が無数に残るほど繊細なものでもあります。
これは、元々戦場での主兵器は弓矢ややり、鉄砲であり、刀はあくまでも戦いの最後の近接戦闘やその後の首切りなど、本当の命のやりとりだけに使われたものだからです。(このため、日本刀は霊器として尊重されてきました)
そしてそうしたひけ傷を直すには、研ぎ直ししか方法が無く、日本刀の本格的な研ぎ直しには江戸の昔からサラリーマン平均1ヶ月分弱の給料程度の大枚が必要です。(意外かも知れませんが、刀は一度研いだら十年二十年は研がずに使うものなのです)
従いまして、こうした無茶な実験は刀が可哀想ですので、いかがなものかとは思います。
良くある質問:
「日本刀は3人も斬ったら斬れなくなる?」
答え:
「刃筋さえ間違えなければ何人でも斬れます」
困ったことに「日本刀は3人も斬ったら血油が巻いて斬れなくなる」という俗説があります。これはまったくのデタラメです。
そもそも、日本刀は油を塗って保管してあるものです。したがって、血油が巻いても全く切れ味に影響はありません。
ただし、血油が付いたまま一昼夜も放置したら、血の塩気に当たって翌日には見事な赤さびの固まりの完成です。うっかり指先程度でも斬ったら、すぐに手入れは必要です。
江戸時代の処刑人の処刑記録など過去の記録を紐解くと、20〜30人くらいの首を一本の刀で一日の内にまとめて落としているようです。そこで使われた処刑人の刀は未だに残っていますから、人間を斬ってもさほど切れ味には影響しないことがわかります。
実際、私自身、竹や藁を斬っても、100本やそこらでは全く切れ味は変わりません。私の武道の師匠様は鶏肉や豚肉でも試したそうですが、やはり、ほとんど切れ味に変化はないそうです。
また、一太刀のもとに斬り伏せた切れ味では、死体を使って試した「七つ胴」の刀まで現存していますから、7人くらいは重ねて斬ってもなんでもないことはわかると思います。
とはいえ、実際の戦場では、鎧や服の上から相手を斬るわけで、こうなると、鉄などの堅い異物に当たって刃こぼれを起こすのは必定です。また、戦場では当然に手の内の間違いも起りやすくなりますので、曲がったり折れたりもするでしょう。戦場には未熟な状態でも出ることは多いですし、また興奮状態でもあります。そうなると、斬れるものも斬れないことが多かったでしょう。
こうした切れ味への誤解は二次大戦前には見られないところから、二次大戦でこうした未熟な状態で斬り込んで斬りそこなった経験から、この俗説が生まれたのではないかとも思っています。
良くある質問:
「日本刀は霊器だからそれで斬っちゃダメなんじゃない?」
答え:
「霊器だからこそ普段から斬る稽古を積む必要があります」
歴史上、日本刀が霊器といわれるのは、その長命さや鉄や火の神聖性もさることながら「本当に最後の命にやりとりに使う兵器だ」という意味合いが強いのです。
戦場の最終決戦、あるいは、戦闘後の首切り。あるいは切腹後の介錯。そうした神聖な場面に命を吸ってきた兵器だからこその神聖性です。
極論を言えば、斬れない刀はただの半端に焼きの入った鉄の棒です。それに人が加わって他人の命を奪える状態になって初めて、神聖性が生まれるのです。
ただし、そうして数百年幾多の人の命を吸ってきた、あるいはこれからの数百年の間に幾多の人の命を吸う可能性の高い霊器ですから、扱いは慎重にしなければなりません。
拝見する前には必ず礼。武道に用いる前、あるいは用いた後には、必ず刀礼が必須です。
それは、ただの鉄の棒への作法ではなく、吸われた、あるいはこれから吸われるかも知れない人の命への礼法でもあります。
居合などで併伝される試斬稽古には、こうした、斬るべき場面への対応という意味があります。
刃先にしか強い焼きの入っていない日本刀は、しっかりと訓練を積まないと、全く斬ることの出来ないものです。剣道や居合の有段者であっても、初めての試斬でちゃんと斬れたという話は遺憾にして聞き及びません。竹刀で勝つ為の振り方、あるいは居合で美しい振り方と、真剣で斬れる刀法は、全く別のものなのです。
競技スポーツやレクリエーションとしてならともかく、斬れない剣術や斬れない居合に武道としての意味はありません。
このため、江戸の昔から、剣術、居合に併せて、必ず試斬の稽古も行われてきました。
従って、武道としての刀の使い手を自認するのであれば、斬るための稽古は必須なのではないでしょうか?
なお、現代日本においても、各県教育委員会の許可証のついている刀であれば試斬などをすることは可能です。これは、美術性をもって保存・所持が許可されている日本刀を持ちいる居合や試斬という武道自体にも芸術性・美術性があるためです。
逆に言えば、万一の護身のために日本刀を所持し、試斬するのは銃刀法違反になります。あくまでも武道という、伝統と文化、精神性の保持という点に注意が必要です。
良くある質問:
「どうして古刀に勝る現代刀がないの?」
答え:
「鉄の質の問題と、製法、単に時間の流れの問題です」
事実として、古刀(安土桃山以前の日本刀)に勝る現代刀(明治以降の刀)は存在していません。もっと言えば、新刀(江戸初期の刀)や新新刀(江戸中後の刀)でも、古刀に敵うものはありません。
この理由として、以下のようなものがあるのではないかと言われています。
「1.鉄の質がそもそも劣っている」
古刀の鉄は、山からとった、あるいは川に流れた砂鉄を、川の水力を使って比重分離したものが多く使われています。ここから、ズクと呼ばれる高炭素の鉄を作って、そこから脱炭して作られていたようです。
これに対して、現代刀は、磁力を用いて河原などから集めた砂鉄を使って出来た玉鋼と言われる和式精製鉄に吸炭をさせて作られています。
このため、多少砂鉄内の質が異なっていても、磁力にくっつく程度の鉄分があれば現代刀に混じってしまうわけで、ここがまず第一の質の違いではないかといわれています。
「2.製法の違い」
そもそも、古刀の製法は、一子相伝や一族相伝で、極秘とされてきた軍事機密でした。
そのため、江戸期以前の製法は現代にまで文献では残って居らず、そもそも製法が違うのではないかと言われています。
例えば、新刀(江戸初期)以降の刀は、高炭素の皮鉄と低炭素で柔らかい心鉄の2重構造で折れず曲がらずのハイブリット構造を実現していますが、古刀にはこうした構造はあまり見られません。にもかかわらず、古刀の方が、美しく、よく切れ、折にくいのです。
ここの解明は、現代科学を持ってしても難しいようです。
「3.時の流れによる選別と熟成」
重要なポイントとして、時の流れによる選別という点が挙げられます。
つまり、戦場を生き残る強さのある刀や、残る価値のある名刀だけが残ったわけで、古刀の出来のいいのは当たり前だというのです。
また、時間の経過に伴う鉄地の落ち着きも見逃せない点です。
つまり、作られた当初よりも時の経過によって折り返し鍛錬された鍛え地の密着性や経年変質による地肌の違いは増しているわけで、ここが強度や美しさの元になっているのでは、とも言うのです。
こればかりは、現代人にはどうしようもない点なのかも知れません。