日記詳細&コメント
供武刀
先日の、松葉先生御鍛刀場への訪問が、若手刀匠の会である叢雲会のブログにもコメントされました。くすぐったいような思いです。
それにしても、このブログに於て松葉先生が命名された「供武刀(きょうぶとう)」というのは大変良い呼び名だと思います。
今の刀剣界は眺めて見るための美術刀剣が主流で、武用に使う刀は「居合刀」と呼ばれることが多いのです。しかし、この「居合刀」と言う名前には単に武用の刀という意味だけではなく「使い潰せる安いダメ刀」と言う意味合いもあり、場合よっては「刃のついていない居合用模擬刀」を指す場合もあります。
実は現代日本では、刀を武用に用いることの評価が低く、美術刀剣を専門に見る人たちに居合用の刀の話をすると、大抵バカにしたような態度で「安いダメ刀を適当に使っていればいい」という話になります。「居合刀」という呼び名に「ダメ刀」という意味合いがついたのは、こういった評価の影響が多大にあるのでしょう。
しかし、これは、座視することの出来ない、非常に危険な傾向だと思われます。
なぜなら「武用に使う刀はダメ刀」ということは即ち「武用に使わない刀にこそ素晴らしいものがある」ということであり、これは、刀という兵器(兵の使う器なので兵器なのです)の本質を正面から否定しているわけです。刀剣というものの本質を考えた場合にこの傾向が果たして健全な傾向かというと、はなはだ疑問であるわけです。
そこで、松葉先生が呼ばれている「供武刀」という名前が生きてくると思うのです。
武用に打たれ、武用に研がれ、武用の拵えがつけられた刀ではあっても、決してダメ刀ではない。確かに研ぎは居合向きに仕上げ研ぎをあまりしていないもので、なにかと傷みやすい拵えも、多くの場合に漆ではなく安く修復の楽なカシュー塗りです。しかし、それはあくまでも武用の刀であるからの実用上の都合なのであり、打上げられた刀の本質・芸術性としては一切手抜きをしていないのだ、という意味を強く感じます。
日本刀の本質は「折れず曲がらずよく斬れる」であるとよく言われます。
これは、前から順に大切なことを語っていて、まず第一に決して折れないこと、そして第二に曲がりにくいこと、さらに出来るならば第三に永らく斬れ続けることを指します。
本来、日本刀の価値、芸術性とは、この三点を前から順にいかに達成したのかというところに重点があるのです。姿形や鉄肌の美しさなども重要ですが、それは日本刀を日本刀たらしめているこの三点を達成した次に来るべき事です。
そして、この三点の要点のいずれも、眺めて見ているだけで武用に供ぜられなければ、決してわからないことなのではないでしょうか?
また、武用と言っても、真剣を使う武術は別に居合だけではない、というのも重要なポイントです。
居合以外にも、剣術はもちろん、古流柔術の中にも真剣を使う流派は多いですし、松葉先生は合気道にも御刀を応用されておられます。弓道やその他の直接刀を振ることのない武道でも、正式な場では、前差・脇差として真剣を帯刀することはごく普通に行われています。
こうした武術にとって「居合刀」という名前は使いにくいものでしょう。
このような様々を考えても、松葉先生の打たれる武用の御刀を「居合刀」ではなく「供武刀」と呼ぶのは、非常に適切な事ではないかと強く思うのです。
それにしても、美術刀最高峰の無鑑査間近と噂される名刀工自ら、敢えて武用の刀を打ち続ける、そんな松葉先生の器の大きさ、武用の先にある古刀名刀の美を目指しているのであろう刀への熱い思いを感じずには居られません。
それにしても、このブログに於て松葉先生が命名された「供武刀(きょうぶとう)」というのは大変良い呼び名だと思います。
今の刀剣界は眺めて見るための美術刀剣が主流で、武用に使う刀は「居合刀」と呼ばれることが多いのです。しかし、この「居合刀」と言う名前には単に武用の刀という意味だけではなく「使い潰せる安いダメ刀」と言う意味合いもあり、場合よっては「刃のついていない居合用模擬刀」を指す場合もあります。
実は現代日本では、刀を武用に用いることの評価が低く、美術刀剣を専門に見る人たちに居合用の刀の話をすると、大抵バカにしたような態度で「安いダメ刀を適当に使っていればいい」という話になります。「居合刀」という呼び名に「ダメ刀」という意味合いがついたのは、こういった評価の影響が多大にあるのでしょう。
しかし、これは、座視することの出来ない、非常に危険な傾向だと思われます。
なぜなら「武用に使う刀はダメ刀」ということは即ち「武用に使わない刀にこそ素晴らしいものがある」ということであり、これは、刀という兵器(兵の使う器なので兵器なのです)の本質を正面から否定しているわけです。刀剣というものの本質を考えた場合にこの傾向が果たして健全な傾向かというと、はなはだ疑問であるわけです。
そこで、松葉先生が呼ばれている「供武刀」という名前が生きてくると思うのです。
武用に打たれ、武用に研がれ、武用の拵えがつけられた刀ではあっても、決してダメ刀ではない。確かに研ぎは居合向きに仕上げ研ぎをあまりしていないもので、なにかと傷みやすい拵えも、多くの場合に漆ではなく安く修復の楽なカシュー塗りです。しかし、それはあくまでも武用の刀であるからの実用上の都合なのであり、打上げられた刀の本質・芸術性としては一切手抜きをしていないのだ、という意味を強く感じます。
日本刀の本質は「折れず曲がらずよく斬れる」であるとよく言われます。
これは、前から順に大切なことを語っていて、まず第一に決して折れないこと、そして第二に曲がりにくいこと、さらに出来るならば第三に永らく斬れ続けることを指します。
本来、日本刀の価値、芸術性とは、この三点を前から順にいかに達成したのかというところに重点があるのです。姿形や鉄肌の美しさなども重要ですが、それは日本刀を日本刀たらしめているこの三点を達成した次に来るべき事です。
そして、この三点の要点のいずれも、眺めて見ているだけで武用に供ぜられなければ、決してわからないことなのではないでしょうか?
また、武用と言っても、真剣を使う武術は別に居合だけではない、というのも重要なポイントです。
居合以外にも、剣術はもちろん、古流柔術の中にも真剣を使う流派は多いですし、松葉先生は合気道にも御刀を応用されておられます。弓道やその他の直接刀を振ることのない武道でも、正式な場では、前差・脇差として真剣を帯刀することはごく普通に行われています。
こうした武術にとって「居合刀」という名前は使いにくいものでしょう。
このような様々を考えても、松葉先生の打たれる武用の御刀を「居合刀」ではなく「供武刀」と呼ぶのは、非常に適切な事ではないかと強く思うのです。
それにしても、美術刀最高峰の無鑑査間近と噂される名刀工自ら、敢えて武用の刀を打ち続ける、そんな松葉先生の器の大きさ、武用の先にある古刀名刀の美を目指しているのであろう刀への熱い思いを感じずには居られません。
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